2015年9月18日金曜日

聖職を取り戻そう

人生は、キッザニアみたいなものさ。
憧れていた仕事をする時に、胸を張って誇りを持つんだ。
四元壯



悲しいニュースが目立っている

埼玉県熊谷市で、ペルー人に6人が殺された。
その中には、2人の10歳に満たない子どももいた。


俺も、小学校2年生までは熊谷で育ったから、
今でもすごく愛着のある街だ。
そんなところでこういう事件が起きたのはとても悲しい。


ニュースにならないだけで、
ひどい事件なんか腐るほどあると思うけど、
小さな子どもを殺す事件だけは、
本当に許せないと思う。


子どもは、宝だ。
国にとっても、世界にとっても宝で、
子供と書いて、たから、とルビ振ってもいいくらい、
大切な存在だ。


また、大阪では集団で女性を襲う事件があり、
首謀者が警察2人だったそうだ。
仮に、どんなにだらしない女性だったとしても、
明らかに自分より弱いものを、集団でこういうことするのは、
同情の余地は一切ない。


ただ、このペルー人による殺人も、
大阪府警の事件も、警察の落ち度による事件だ。
きっともみ消しも含めると、警察による事件は相当数あると思われる。


警察も教師も、かつては聖職者と呼ばれていた

俺が子供の時にはもう既に死語ではあったと思うが、
昔、
教師は「聖職者」と呼ばれていた。


生徒だけでなく、親も、
「先生」といって尊敬をし、
先生が叱ったならば、
子供が悪いのだろう、というくらいの存在だった。


”聖職者”という言葉を調べてみると、
「人々を導く人」
と言う説明が出てくる。


ここでのポイントは、
「人」ではなく、「人々」というところだ。


聖職に就く人は、「人々」を導く存在でないといけない。
しかし、最近の警察はどうだろうか?
教師はどうだろうか?


ある意味で、率先して堕落していっているのが、
教師であり、警察である気がする。


それは、悲しくも、
豊かになっていった日本では、
「世の中の為に、自分はこの仕事をするんだ!」という使命感よりも、
「安定した生活を送る為に、自分は公務員を選ぶんだ。その中なら・・・教師かなぁ」というあくまで、世の中に数多くある選択肢の中から、”自分の”安定の為に、その職業を選択するという状況が生まれてしまったからだと思う。


俺も自分の生活の為に、
使命感もなく、やりたいこともMAXでやらない人生を送ってしまっているから、
彼らだけを責めることは出来ない。


今の日本に必要なのは、「ルール」よりも「美徳」

では、そんな世の中になってしまった今の日本で、
出来るだけ正しく生きていくにはどうしたらいいか?


それには、
「美徳」を持って生きるしかないと思う。
「美徳」とは何か?
「美しく」生きるとは何か?
それを一人一人が考えながら、実践しながら生きるしかないと思う。



今の日本には、ルールが多いし、
ルールが日に日に増えてきている。
不文律を含めたら、もう蜘蛛の巣の上で生きているようなものだ。


ルールというのは、
決まっていれば、ある意味楽だ。
それを破りさえしなければいいし、
破ったものを見つけたら、
「破った」というただそれだけの理由で、
責め立てる充分な理由になるから。


しかし、ルールというのは、
適用されている対象者、つまり俺ら市民に対して、
「信用していませんよ」という表明であり証明そのものでしかない。


だって、
ルールが決まっていなければ、
一人一人が、自分たちの価値観で、行動しなければならないし、
かつその価値観と行動が、他者にとってもある程度正しくなければならないから。


でも、今の日本では、
それは出来ない。
日本というか、東京だけかもしれないけれど。


電車での人々の振る舞いを見れば、
今の日本人がどういう人種なのかを見ることが出来る。
諸外国と比べると、マシかもしれない。
でも、
日本人は、日本人として美しくあるべきで、
他国とくらべてマシ程度ではダメなんだ。
(ちょっと右寄りの発言でました)


というわけで、今日はだいぶ長くなってしまいましたが、


ルールよりも美徳。
美徳があれば、聖職に就いている人々も、
その神聖さが戻って来るはず。


美しく誇り高く生きよう。
それが結局全ての人にとって良い世界に繋がるはずだ。



「女、子ども以外なら、誰でも殺す」逆にすると美徳が見える。「誰でも殺す。女、子ども以外はな」





















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