いつだって、いつまでだって、自分自身と向き合っている。
四元壯
落とし穴は評価を気にした先にある
こないだの北野映画と関連するが、
(参考:北野映画の魅力)
北野武は、評価は気にしないようにしている、という。
1996年の国際映画シンポジウムで(キッズ・リターンが公開された年)、
各国の監督たちから質問を受けながら答えいた。
「自分自身、一番怖いのは、評価を意識しだして作為的になること。
これをやればウケるだろう、というのが先行してしまう自分が悲しい。」
北野武
”評価をされる”というのは、誰しも悪い気はしないものだと思う。
むしろ、嬉しいし、気持ちいいし、
普通は一度味わったら、もう一回もう一回となるだろう。
しかしタケシは、それを自ら律する。
それは、他人の評価を気にしたら、
自分の中にあるものを、自分が最初にイメージしたものを正しく表現できなくなるから、
だという。
北野武くらいになれば、
他人がウケる映画を作ることは、そんなに難しいことではないと思う。
でも、それをしないのは、
自分自身が悲しいから、と自分の感情や感性を大切にしている。
北野映画のサントラを多く手がけている久石譲も
久石譲は、若い時は現代音楽、とりわけ前衛芸術に傾倒していて、
4分33秒ピアノの前に座っただけで一切引かない”曲”(それ曲なの?というw)などを聞いていたらしい。
ただ、ある時から、
芸術としての音楽ではなく、多くの人に聞かれる”街の音楽家”になろうと思い、
そこから、ジブリのサントラなどを手がけはじめたらしいのだが、
久石譲も北野武と同様の発言を、自著『感動をつくれますか?』の中でしている。
「曲を書く際に、人を感動させてようとか、美しいメロディーを書いて泣かせてやろうと考えているわけではない。監督に気に入られるような映画音楽をつくろう、とも考えないようにする。
その仕事、その映画にとって本当に必要なものをきちんと提供することが大切なのであって、まずは僕自身がその目的を達成できるかにある。
それを映像作家としての立場で監督が気に入ってくれれば、ああよかった、となる。
結果とはそういうものだ。
はなから監督や観客に気に入ってもらうことを意識してつくることはない。」
久石譲
多くの人から支持されるのと、迎合されるのは違う
きっと、探せばもっと多くのアーティストから、同様の発言は拾えるだろう。
アーティストは、
多くの人に支持、応援をしてもらわないと成り立たないものだろうけど、
だからと言って、
「こういうのやっとけばいいんでしょ?」
的に表現をし出してしまったら、
それはただの迎合で、アートでは決してない。
だから、”期待外れ”であろうとも、
”予定調和”でなくても、
アーティストは、
自分の中にほとばしり、浮かび上がっているものを、
イメージに忠実に、決して他人に左右されず、
表現することが求められているのだろう。
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